題 名 江戸名所 猿若町芝居顔見世繁栄の図 作者名 歌川広重(初代)
所在地 浅草6丁目(浅草猿若町) 制作年 天保13年~安政5年(1842~1858年)

江戸府内に常設の芝居小屋ができたのは寛永元年(1624)のことです。

歌舞伎が泰平の世の町人の娯楽として定着しはじめると、府内のあちこちに芝居小屋が立つようになります。 しかし奉行所は風紀を乱すという理由で遊女歌舞伎(1629)や若衆歌舞伎(1652)を禁止、野郎歌舞伎には興行権を認可制とすることで芝居小屋の乱立を防ぐ方針をとりました。 天保12年(1841)10月7日、人形町近辺にあった中村座が失火で全焼、火災は堺町・葺屋町一帯に延焼し、市村座も類焼して全焼しました。 幕府は老中首座の水野忠邦を中心に天保の改革の一環として、外堀のはるか外側、堺町・葺屋町からは東北に一里はあろうかという辺鄙な土地であった浅草聖天町(しょうでんちょう、現在の台東区浅草6丁目)にあった一万坪余りを代替地として中村・市村・薩摩・結城の各座に下し、そこに引き移ることを命じました。 天保13年(1842)4月、聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名に因んで猿若町(さるわかまち)と改名されました。

水野の目論見とは裏腹に、猿若町では三座が軒を連ねたことで役者や作者の貸し借りが容易になり、芝居の演目が充実しました。 また城下では常に頭を悩まされていた火災類焼による被害もこの町外れでは稀で、相次ぐ修理や建て直しによる莫大な損益も激減しました。 そして浅草寺参詣を兼ねた芝居見物客が連日この地に足を運ぶようになった結果、歌舞伎はかつてない盛況をみせるようになり、浅草界隈はこうして江戸随一の娯楽の場へと発展していきました。