山谷堀(さんやぼり)は、かつてあった東京の水路。正確な築年数は不明ですが、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られました。 現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されています。 江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言いました。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされ、界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所でしたが、明治時代に遊興の場が吉原から新橋などの花街に移るにつれて次第に寂れ、昭和には肥料船の溜まり場と化し、永井荷風の記述によると、昭和初期にはすでに吉原は衰退しており、山谷堀も埋め立てが始まっていました。 戦後の売春防止法による吉原閉鎖後、1975年までにすべて埋め立てられました。
かつては「よろず吉原、山谷堀」と歌にも歌われ、江戸名所のひとつに挙げられる風情ある場所で、船の出入りが多くなる夏の夕方などは絵のように美しかったといいます。 河口岸には有明楼などの料亭があり、芸者遊びなどもできました。 江戸三座があった猿若町(現在の浅草6丁目辺り)に近いため、山谷堀芸妓(堀の芸者)は「櫓下」とも呼ばれました。 水源は石神井用水(音無川)で、水流は根岸から三ノ輪を通って、隅田川まで続いていました。 埋め立てられる前の山谷堀には9つの橋がありました。