題 名 東京名所 新吉原夜桜ノ図 作者名 豊原周春
所在地 千束4丁目(新吉原町) 制作年 明治20年(1887年)

徳川家康が幕府を開くと江戸の町には多くの武士たちが集まるとともに、江戸の町の整備のため多くの人足が集められ、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられます。 そのため江戸市中には遊女屋が点在することとなりました。 江戸の町の整備のため、これらの遊女屋はたびたび移転を求められたため遊郭の設置を嘆願しました。 このとき幕府が提供した土地は、日本橋葺屋町続きの2丁(約220メートル)四方の区画で、江戸湾海岸に近くヨシが茂り、当時の江戸全体からすれば僻地でした。 「吉原」の名はここから来ています。 江戸市街は拡大し続け、大名の江戸屋敷もこの吉原に隣接するようになっていました。 そのような中で、明暦2年(1656)10月に幕府は吉原の移転を命じました。 候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所でした。 吉原側はこのままの営業を嘆願したが聞き入れられず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意しました。 翌明暦3年(1657)正月には明暦の大火が起こり、江戸の都市構造は大きく変化する時期でもありました。 大火のために移転は予定よりも少し遅れましたが、同年6月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋は全て移転しました。 移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼びます。 新吉原には、京町1,2丁目、江戸町1,2丁目、仲之町、揚屋町、角町があった(京町以外は全て『ちょう』と読みます)。

嘗ての歓楽街も、今はオレンジ色の街路灯が昔の風情を残すのみです。