題 名 東京真画名所図解 上野新阪 作者名 井上安治
所在地 上野桜木1丁目(上野桜木町) 制作年 明治17年~明治22年(1884~1889年)

上野公園内の東京国立博物館の南東側、寺院が立ち並ぶ通りを北東に行くと寛永寺霊園に突き当たります。 その脇の道をJR鶯谷駅方向へ下っている坂が新坂です。 坂を下ると言問通り、根岸です。 歩行者用通路にある標識には、『明治になって、新しく造られた坂である。 それで、新坂という。 明治11年(1878)内務省製作の『上野公園実測図』にある「鶯坂」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期に造られたらしい。  鶯谷を通る坂だったので、「鶯坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。』と記載してあります。

明治5年(1872)に兵部省は寛永寺の敷地を陸軍病院、陸軍墓地の用地とする決定をしました。 しかし、これに猛反発をしたのがオランダ人軍医・ボードワン博士。 彼は、自然豊かな上野の山を見て、「学校や病院を建てるのは途方もない謬見(びゅうけん)である」と大反対。 政府に公園建設を働きかけました。 彼の尽力が、病院建設の決定を翻し、現在まで続く上野公園を生み出したのです。

坂を下ったあたり、現在の根岸1丁目1~3番地あたりは江戸時代には寛永寺の敷地内でした。 上野公園の開発や内国勧業博覧会に合わせてこの新坂ができたようです。